子育て住職 すくすくなる日々

電車の中の家族連れが「煩悩」という事を考えさせてくれた

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日常会話の中で

「お前は煩悩だらけだなー」
「煩悩が出てきた」

という言葉を聞くことがあります。

煩悩という言葉。
言葉にはだすけど、
人によって捉え方は様々。

よくよく出てくる言葉のような気もしますが、
一体どんなものなんでしょう?

先日、電車で家族連れの方達と共にしました。
その時の体験が、
あるお経の言葉を思い出させ

「あー、なるほどな」

と、納得させてくれました。

煩悩と常に共にいるわたしたち

まず、都合のいい時にだけ煩悩がでてきてしまう事ありませんか?

これは、

「イライラして、煩悩がでてきた。ちょっと休んだ方がいいな」
「煩悩を消し去る」

と日常で言ってしまうように、
普段は煩悩もなにもない清廉潔白で清らかな自分なのに
なにかの拍子に煩悩がでてきた。

と思ってしまっているという事です。

「正信偈」という、お経の中に

「煩悩障眼雖不見(ぼんのうしょうげんすいふけん)」

という言葉があります。

これは、

「わたしたち人間は煩悩があり、(いや、むしろ煩悩に包まれているよ)
だから、私の都合で物事を見てしまう。
そして、それによって本当のものが見えなくなってしまう。」

という意味です。
(このあとに「大悲無倦常照我(だいひむけんじょうしょうが)」がつづきますが。)

これはつまり
煩悩は

まっさらな白いTシャツに醤油こぼれて付いてしまったというものでもなく
悪い鬼さん(煩悩さん)出ていけーってものでもなく
桃鉄でいうところの貧乏神のように、なにかの拍子についてきてしまうってものでなく

本来から、人間に備わっているモノって事になります。
頭や腕や足や臓器といったモノと一緒に備わっている存在ですね。

だから、「ちょっと悪い事考えちゃった〜、てへへ」って時だけ
煩悩のせいにしてしまっちゃいますが、これは他人事ではありません。

自分自身の煩悩が視界不良をおこす

ここまで、煩悩がどんな存在として位置しているのかを書きました。

体の一部として煩悩があるっていうのは、
「いや、それはなんとなく理解してるよ」って人もいらっしゃるかと思います。

ここからがさらに伝えたいこと。

先に書いた、
「煩悩障眼雖不見(ぼんのうしょうげんすいふけん)」の意味で

”それ(煩悩)によって本当のものが見えなくなってしまう。”

ってことです。
 
わたしたちが日常生活を過ごす中で、
自分の見た事、自分の視点から

「いや、これは間違っている」
「自分は正しい」

と思う事は大小たくさんあると思います。

たとえば、
友達から、夫婦喧嘩(またはカップルの喧嘩)の相談を受けた時、
怒りの原因を聞いてみて

「え!?たった、そんな事、、、、!!?なんでそこまで怒ってるの、、?」

と思った経験はないですか?

普段ならなんでもないことでも、
ひとたび喧嘩がおこってしまえば、自分の都合・自分が正しいという事だけが先行して、相手が許せなくなってしまいます。

これも煩悩によるモノなんではないでしょうか。

電車内で共にした家族連れ

さて、先に触れた電車内での体験です。

先日、お盆の帰省ラッシュのタイミングでサンダーバードという関西と北陸を結ぶ電車にのりました。

この電車、お盆のこの時期は、家族連れでいっぱいになるのですが、
今回もまた小さいお子さんを連れた家族がたくさんおられました。

このようなシュチュエーションでよくある光景。
そうです。

泣き叫ぶ子供ちゃん

やはり、この時もあるお子さんが終始泣き叫んでました。約2時間。笑

で、
その時にまず思ったのは、

「うわー、大変やろうな、両親、、、、ファイトォ!」

という事。

さらにいうと、
待ちに待った夏休みに、じいちゃんばあちゃんに成長した孫の姿を見せるため、
この苦難を乗り越えているんだとも勝手に妄想してました。

でも。
でも。。

よくよく考えてみたんですが、
僕がまだ学生の頃。そう、20歳頃です。
あの時、こんなシチュエーションに出会えば、

「本当に静かにしてほしい」
「親はなんとかすればいいのに」

と思っている事もありました。

それが、時がたって
親となり視点が変わって、知らないうちに変化していたようです。自分自身。

学生の時の自分は、自分の都合ばかりを考えて、うるさいとだけ思っていた。
もちろん、その事は正しいと思っていたし、なんなら正当化して友達に愚痴をこぼしていたかもしれません。

それが今は、経験をとおして相手の親の立場となって物事を考えれるようになった。

あくまでも、この事に関しては。

これは、たまたま自分が育児をするようになって相手の立場を考えられるようになっただけで、
まだまだ、相手の立場を考えず自分の都合しか考えてないことも多々あるのだろうと実感もしました。

これこそが、「煩悩障眼雖不見(ぼんのうしょうげんすいふけん)」という事なんだと実感しました。

いやー、これ、本当に怖いわ。

煩悩のある自分が持てる大切な事

相手の親の立場となって物事を考えれるようになった時に出てきた心が、
仏教でいうところの「慈悲(じひ)」の心というモノです。

この慈悲の心は、つまり「思いやり」の心です。

煩悩にまみれたわたしたち
知らず知らずのウチに人を傷つけていたり、
後になって、とっても恥ずかしいと思えてしまう事をしてるかもしれません

が、
煩悩にまみれたわたしという事を自覚して、
自分自身の判断で善悪をきめつけず、相手の立場にたって考えてあげること。
大切なのは思いやりなんでしょう。

まぁ、まずはできることから。

とりあえず僕は、泣いた子供を一瞬で笑わせる事ができる顔芸をマスターしたいと思います。

 

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